2017.10.3

救いってなんだろう。今日はそんなことを書いてみようと思う。結論もでないだろうし、まとまりもしないだろう。結果的にそうなればいいなと思うだけで、ここには締切もないのだから、書くことで考えがはっきりしていくことだけを目指して、進めていきたいと思う。

 

救いという言葉は素敵に響く。すくい。濁りもない。軽く息がもれていく感じ。力を込めると途端に白々しくなる。力みはいらない。その言葉は自然に口にしてもらいたいと僕は思う。

 

救いは瞬間的だ。僕らの中に長く残るのは救われた感覚だ。救いがふっと通り去って、通りがかりに淀んだ空気をかっさらっていって、寒い夜が澄んだ空気で満たされているように、その後には僕の輪郭を浮き立たせる空間が残る。その時、僕と世界ははっきりわかれていて、それが生きているという感覚の根拠となる。

 

僕と世界の関係に妥協点が打たれた時、そこに救いが起こる。救いは妥協なのか。妥協することが、救いを招く条件なのか。妥協だと、自分があまりにもありすぎる。計画的に救いへたどり着くことはできるのか。いや、それはない。救い、と、計画的、というのは遠い。自分の努力でどうにかなるものであれば、救いを求めることもない。

 

自分の力が及ばない場所から来るから救いなのだ。そしてその言葉の先には神がいる。

神という存在が、その言葉を介すると、実のあるもののように感じられる。

 

救いという現象を説明するために神が現れたのか、神がいたから救いという現象に理由付けができたのか。神が救うから、その有り難みが増すのか。

 

でも、救いに優劣はつけれない。比較するものでもない。救いは個人的な訪れだ。個人に芽生えるものだから価値がある。どうしてそう思うのだろう。みんなで救われちゃいけないのだろうか。共有されると失われるものがあるとでもいいたいのか。

 

僕は特定の宗教を真面目に信仰しているわけではない。だからといって、それが救いについて考えることを邪魔するものではないけど、なぞるようにしか宗教にふれてこなかったことは、結局その程度にしかそれを考えられないということだ。なんというか、それは望むところではない。