2017.10.4

人間生きていると記憶が溜まってくる。いいものも、わるいものも、そこにはある。わるいもののほうが、はっきりと思い出される。こちらの都合は関係なく、呼んでいなくてもやってくる。その時のことが思い出されて、どんよりとした気持ちになる。そんなに自分をいじめたいのか。自分をいじめたい、自分がいるのかもしれない。忘れず活かすように、なんて、教訓のような働きは、そこにないのかもしれない。

ただ意地悪で、悪意に満ちた何かがそこにある、としたらどうだろう。記憶もひとつの人格をもっている。人格というより、意志のような、何かに向かっていく動きが、そこにあるのだとしたら。自滅を望む意志。フロイト死の欲動ではないけれど。

 

何をもって、記憶を、いいものとわるいものに分けるのか。

それを考えるために、ここ最近起こったことを思い出してみようとして、ことを漠然としか思い出せない自分に気が付く。

意識的に記憶を探るという作業において、僕は素人だ。

記憶力、とは何だろう。たくさん入るということか。出し入れが巧みだということか。概ね、その二つが記憶力を裏付ける能力値だと思う。

その記憶力は何の役に立つのか。役に立つと思われているから人間を測る尺度として取り入れられているのだ。記憶力という尺度で人間を測った時、それで何が明らかになるのか。それは人間としての僕のどんな評価に関わるのだろうか。

記憶力における記憶は、取り出し可能だから記憶足り得る。取り出し可能でなければ記憶ではない。可能、ということは、そこに僕の力が働く余地があるか、ないか、ということでもある。僕が働きかければ表に出てくる用意のあるものが記憶だ。

それでは僕の意志に関係なく出てくるものは何なのか。悪い記憶と初めにいったものは、記憶とは違う別なものなのか。トラウマ、というものなのか。たぶん違う。そこまで強いものではない。

悪いといっても、対話ができないわけじゃない。話ができる余地はまだある。トラウマとは自分だけでは話ができない。たちまち呑み込まれる。だから強烈。

2017.10.3

救いってなんだろう。今日はそんなことを書いてみようと思う。結論もでないだろうし、まとまりもしないだろう。結果的にそうなればいいなと思うだけで、ここには締切もないのだから、書くことで考えがはっきりしていくことだけを目指して、進めていきたいと思う。

 

救いという言葉は素敵に響く。すくい。濁りもない。軽く息がもれていく感じ。力を込めると途端に白々しくなる。力みはいらない。その言葉は自然に口にしてもらいたいと僕は思う。

 

救いは瞬間的だ。僕らの中に長く残るのは救われた感覚だ。救いがふっと通り去って、通りがかりに淀んだ空気をかっさらっていって、寒い夜が澄んだ空気で満たされているように、その後には僕の輪郭を浮き立たせる空間が残る。その時、僕と世界ははっきりわかれていて、それが生きているという感覚の根拠となる。

 

僕と世界の関係に妥協点が打たれた時、そこに救いが起こる。救いは妥協なのか。妥協することが、救いを招く条件なのか。妥協だと、自分があまりにもありすぎる。計画的に救いへたどり着くことはできるのか。いや、それはない。救い、と、計画的、というのは遠い。自分の努力でどうにかなるものであれば、救いを求めることもない。

 

自分の力が及ばない場所から来るから救いなのだ。そしてその言葉の先には神がいる。

神という存在が、その言葉を介すると、実のあるもののように感じられる。

 

救いという現象を説明するために神が現れたのか、神がいたから救いという現象に理由付けができたのか。神が救うから、その有り難みが増すのか。

 

でも、救いに優劣はつけれない。比較するものでもない。救いは個人的な訪れだ。個人に芽生えるものだから価値がある。どうしてそう思うのだろう。みんなで救われちゃいけないのだろうか。共有されると失われるものがあるとでもいいたいのか。

 

僕は特定の宗教を真面目に信仰しているわけではない。だからといって、それが救いについて考えることを邪魔するものではないけど、なぞるようにしか宗教にふれてこなかったことは、結局その程度にしかそれを考えられないということだ。なんというか、それは望むところではない。